オチがなくてよい日記

思っていることをできるだけ取り繕わない形でかくばしょです。日記はむりなので週記くらいにしたい。

一万時間という絶望と正解しなくていい一時間の話

漢数字と英数字が入り乱れる汚い文章になりますが、ここは「一万時間」をある意味では熟語として使うのが美しいかなと思っているのでそうしています。

 

 

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「物事を収める(極めるではない)のには大体一万時間かかる」という言説が在るじゃないですか。

知り合いの医療系の人とこの話をしていて、医学部の6年と研修2年での修学時間を計算したら大体一万時間だったと。一万時間はそんなに当てずっぽうな数字でもないよね、っていう。

一つの物事を1日9時間やると3年間で大体一万時間。これは休日を挟まないため、週5日で考えるなら大体4年半。同じ仕事4,5年やると結構色々見えてくるのは体感で分かるんじゃないでしょうか。心当たりある。

 

(一万時間で検索すると「一万時間の法則はウソ」っていう記事が上の方に多めにありますけど、ぼくはアレは「そういう努力否定ライフハック記事の方がアクセスが伸びるしSEOウケいいからでしょ(みんな努力はしたくないため)」って思っているので信用ならないと思っています。Lifeがそう簡単にHack出来ると思ったら大間違いだぞ)

 

一万時間。一万時間ですよ。

そう考えるとツイッターに転がる途轍もない技量のものは、だいたい一万時間掛かってんですよね。

めちゃくちゃうまい絵も描けるまでに一万時間掛かってる、めちゃくちゃかっこいい曲も書けるまでに一万時間掛かってる、めちゃくちゃ面白い物語を書くのにも一万時間掛かってる、めちゃくちゃ凄い映像を作るのにも一万時間掛かっている(レンダリング時間でわない)、めちゃくちゃ最高のゲームを作るのにも一万時間掛かっている………

なんだかめちゃくちゃ怖くなってきました。アナタの目の前にある創作物、嗜好品すべてが一万時間掛かっている。

 

そして、上記の通り自分の仕事に置き換えてもらえれば理解しやすいと思うのですが、「一万時間」というのはあくまで技術的な意味ではスタートラインなんですよね。それで漸く「ぜんぜんわからん」のレベル。やっていることの概要が見えてくるとかそんな。

だから当たり前ですけど神絵師の絵には一万時間+αが掛かっていて、そのアルファがヤバすぎる、更に一万時間より更に一万時間より更に更に更に……

そんなものに対してぼくは「あんなのやってみたい」とか薄っぺらいセリフを吐いていたのかと気づくとマジでゲボ吐きそうになりますね。嘘。もう吐いてました。惨状でした。

辛くなってきた。だってみんな凄い、凄いみんなはもう先に一万時間終わらせてるわけでしょ?まじかよ。俺まだ一時間もやってねえよ。いややってねえことは一時間もやってなくてもいいけど、やってることも一万時間やってることなんか胸に手を当てても何も思い出せねえよ。いや、ほんとに無い。冗談抜きに思いつかない。労働と生命活動とシコるネタ探しくらいじゃないの?あかん絶望してきた。絶対勝てないやん。

 

なんかね、でもコレ、それぞれの人の「既に一万時間やったこと」からするともう普通なんだろうなってなる奴で。生命活動に自信はゼロですけど、労働の方はまあ最低限のラインは分かるし、シコるネタ探しも多分普通の人よりクロール範囲多いかもしれんなとかは思いますよね。一万時間やるとどれだけの成果が在るかはもう分かってんですよ体感で。自認してないだけで。

だってツイッターとか多分一万時間とかやってんじゃないですかみんな?今コレはワシと同い年位のオタクくんに向けていっていますよ。アラサー以上のオタクは胸に手を当てて?

ツイッター一万時間やってると流石に「あっコレはパクツイだな」とか「コレは流石にスパム垢」「嘘松」「このアカウントはXXなので触らないほうがいい(XXに入る言葉をみんなでかんがえよう!)」とか、最早ツイートの「ふいんき(何故か変換できない)」で分かるでしょ?急にオタク年齢が上がってしまった。でもマジで一万時間という言葉の先に見えてくるものが在る事自体に理解がしやすくなると思うんですよね。インターネットに置き換えると。

要するに「一万時間」の正しさは、20代前半だとわからんけど後半になってくると急激にリアルな数字に見えてくるやつなんですよ。実態と実感が伴うから。一万時間やってた人とやってなかった人の差が明確に見えてくるのはその時期だと思う。

 

そう思うと今始めることってめちゃくちゃ大事なんだろうなと。いま29ですが。
だって大体39になるまでに「何を一万時間やるか」を決めるのは今なんですよ。今。

ああー、俺何を頑張りたいんだろう。俺何を一万時間やりたいんだろう。いま色んなことが頭に浮かぶけど、その一つでさえ一万時間出来る気がしない。これは39までにっていう考えを掲げてるからか?例えば49になって絵がうまくなった俺を俺は許容できるのか?そこからゲームを作りたいって成るのか??手段と目的が狂っていないか?そもそも表現したかったことってなんだ………………?

 

 

一万時間越えた先に見えることがあって、更にその先の一万時間の先にしか見えない世界がある、そしてこれはどんな分野においても同じ。だと私は思っていて。

だから一万時間やった人の話すことは信用できるし、その一万時間には相応の対価が払われるべきだと思う。要するにプロと対面するってのはそういうことで。
(だから誰かが適当に巻いたインターネットしんじつがまかり通って、ソレをプロが多大な時間を使って検証しないといけないそして特に対価もない事例を見ると凄い腹がたちます)

最近色んな分野の所謂プロの人に出会うんですけど。なおかつ意見とか求められたりするんですけど。コッチの答えが正しいはずがないじゃないですかって気持ちになっちゃうんですよね。一万時間、一万時間ですよ?一万時間対ぼくの付け焼き刃の知識ですよ?なにが戦いになるんですか?ってなっちゃって。そういう時は努めて考えないようにするし、その議の目的を考えてソレが遂行されることを第一に考えますけど。けども。
たま~にプロの人からお褒めの言葉を頂くことがありますけど、絶対ウソ。流石にウソでしょって思っちゃいますもん。だって一万時間やってないやつのやった成果を一万時間やったやつが褒めるわけ無いじゃん。どう考えたってそうでしょ。その場の取り繕いよそんな褒めは。勘違いすんな勘違いすんな。あるはずがないんだってホントに。マジで何いってんだ??って言葉が出かかって慌てて謝辞を述べることある。
何でそんな卑屈なのって思うかも知んないですけど、一万時間やったかどうかってマジで自分しか分からないじゃないですか究極的には。だからこそ「俺は一万時間やってねえんだよ何も!!!何も知らんくせにほめんな!!!!」みたいになる気持ちに一旦、一旦なるやつは論理的には分かるでしょ?

コレ一回深夜に書いた文章を見直して所々直してますけどこのパート破茶滅茶に気持ち悪くて笑っちゃうな。

 

 

 

 

ただ、一万時間やった人たちが、誰かの最初の一時間をめちゃくちゃ褒める気持ちは最近なんとなくわかってきました。その一万時間は一時間の積み重ねだってめちゃくちゃ分かるから。

千里の道も一歩から、ローマは一日にして成らず、なんでもいいですけど、その辺の格言よりも「一万時間のためにまずは一時間」って言ってもらったほうがめちゃくちゃ理解できる。いやそこまで噛み砕いちゃったら格言って言わないのよ。

というかね、正解しなくていいんですよ。毎一時間毎一時間正解しなくていい。毎回別に大丈夫じゃなくていいのよね多分。

上で書いたプロの人達だって、別に正解が欲しいわけじゃないんですよ。「観点」とか「別分野」とかそういうのが主の目的で、なんなら「聞き手」が欲しいだけの場合だってある。だから本気で付け焼き刃が切れるだなんて思ってないし、お前ごときに俺が切れるとでも思ってんのか?っていう感じですよね。そりゃそうだわ。
褒めだってそう。逆に言えば、一万時間やった上で自分には”カバーできない”部分を褒めていたりする。そこは凄いよね、っていう。でも自分のできる部分に関しては大きな自信がある、だから別分野をフラットな気持ちで褒められる。

(多分、人間が人を褒めるっていう時はそういう感情なんだろうな本来。ワシ褒める時基本的に全面降伏だと思ってるから、毎回白旗降ってる感じだから良くないんだろうな。考え方がおかしい。)

 

 

 

「正解しなくていい」は「軽率に」ってことだし、それを何度も演れと、そういう話なんだろうな。その原動力は人に見られたい褒められたいではなく単純に好きかどうかなのよ。三流でいい。

失敗する勇気が必要で、そのためには舞台に毎回毎回上がることが重要で。正解しなくていいから一時間を積み重ねたいですね。1日1時間でも10年やると大体1万時間に近づくので。

まあでもこの日記書いてる時間でソレを演れよって話なんだよな。自尊心が常に0ケルビンなので何をするにも報酬を求めすぎなんよ、報酬は作れ自分で作れ。

 

 

文体が大分ブレイクしてきて昔書いてた日記に近づいてきています。危険なので徐々にお上品なやつにもどしたい。